2013年2月25日月曜日

連載「ゲーマーのための読書案内」第15回:『コナン・ザ・グレート』_1

 圧倒的な力で怪物をちぎっては投げちぎっては投げ,八面六臂の大活躍。こういった,ヒロイックファンタジーにおけるヒーローのステレオタイプ(同時にコンピュータRPGにおける戦士像の一つの理想)を作ったのは,ヒロイックファンタジー(あるいはソーズ?アンド?ソーサリー)というジャンルの開祖である「コナン」シリーズだといわれる。  だが,これは正確とは言いかねる。最近ではMMORPGでもテーマとして取り上げられるコナンだが,コナンというキャラクターの魅力は,おどろおどろしい怪物が跋扈する剣と魔法の世界を生きる,超人的な戦闘能力を持った戦士というイメージとは,必ずしも一致しないのだ。  確かにコナンは筋骨隆々とした男であり,その個人的戦闘能力は極めて高い。彼が凶悪な怪物を打ち倒し,邪悪な魔法を破っていくさまは実に痛快だ。また彼は舞台となる世界の標準から見ても随分と自由闊達な人物であり,己が一念を貫き通すやり方はときにウィットに富み,ユーモア精神にもあふれている。そして実際,「コナン」という作品はそういうところを楽しむ大衆文学だ。  しかし,注目すべきはそこだけではない。コナンがコナンたる大きな理由は,彼の持つ強烈な現実主義にある。彼は自らの限界をわきまえているし,恐怖というものの意味も知っている。そのうえでなお,成し遂げなくてはならないことがあるとき,彼は自暴自棄になったり,世の無常を儚んだりするような「無駄な」時間をあまり使わない。  むしろ彼はそこで,どうやったら問題を克服できるかを考え,それに対して必要な準備をし,行動に移る。課題があるところ解決もあるという底抜けの楽天主義と,それに基づいた旺盛な行動力(と執念)こそが,コナンをコナンたらしめているといえよう。  実際,コナンは不誠実か否かといわれれば,断言こそできないが,決して誠実とはいえない。そして狡猾か否かと問われれば,間違いなく狡猾な人物だ。また勇敢か否かと問われれば議論の余地なく勇敢だが,臆病ではないと断言するのも難しい。そういった騎士道的徳目によって,周到な準備と躍動感ある行動が抑止されない/しないのが,「コナン」で描かれた「ヒーロー」だったのだ。  このことこそが,コナン以前の伝統的な英雄譚と,その後のヒロイックファンタジーの決定的な差であったといえる。  例えば作者であるロバート?E?ハワードが強い影響を受け,作中でもモチーフとして頻繁に登場する北欧神話の登場人物は,自己保存という側面をクローズアップすると基本的に偏差値が低い。世界観的に最後は全滅なのだから仕方ないといえば仕方ないが,そこで仕方ないといって終わってしまわないのが,コナンのスタイルである。  同様にケルト神話においても,英雄クー?フーリンはあまりいただけない成績を修めている。そもそも抜け道のない契約をしたら負けだし,ましてやそんな契約を利用されて死ぬなど,もってのほかだ。  あるいはキリスト教の聖人,元祖ドラゴンスレイヤーの聖ゲオルギウスは,せっかく異端の王妃がキリスト教に改宗すると言い出したのに,みすみす王妃を殺され,自分も殉教してしまう,ドラクエ10 RMT。物語としては一貫しているが,死んで花実が咲くものかという無遠慮な突っ込みには弱い。  また騎士道的倫理規範が重視されないというスタイルは,cabal rmt,同じように現実主義的でタフな英雄を描いたエドガー?R?バローズ(「ターザン」「火星のプリンセス」など)との大きな違いとなった。先のゲオルギウスの例を引くなら,「王が異教を崇拝し,王妃がキリスト教への改宗を口にし,ゲオルギウス本人に祈りで神殿を倒壊させる力があるという条件が揃っているなら,ゲオルギウスがやるべきは王妃に仮病をかこわせ,王が一人で神殿に入って配下の司祭達と儀式を始めた頃合を見計らって,彼の神に祈りを捧げることだ」という結論は,コナン的には議論の余地がないが,それはコナンだからたどり着く結論である。  コナンによって拓かれたヒロイック?ファンタジーは,「ファファード?アンド?グレイマウザー」(フリッツ?ライバー)といった傑作を生み,やがて「エターナルチャンピオン?シリーズ」(マイケル?ムアコック)へとつながっていく。そして現状,ほとんどのファンタジーRPGはヒロイックファンタジーの文法の上に成立している。流通量という観点に立てば,ヒロイックファンタジーを最も消費しているのはゲーム人口ではないかとさえ思われる。  ヒロイックファンタジーの一つの継承者となったゲーム市場が,これからどのような作品を生み出していくのかそれを問うに当たって,とりあえずその出発点を知っておくことは,不可欠ではないだろうか。
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